夢と挫折の先に見つけたもの-人生のピークは未来にある(G.G.佐藤さんコラム-第2回)

G.G.佐藤(じーじーさとう)

僕は36歳でプロ野球選手を引退し、現在は測量・地盤改良工事会社で働いています。現役選手時代は波乱万丈でした。年俸1億円以上を稼ぎ、歓声の中でヒーローインタビューを受けていた時期もあれば、4度も戦力外通告を受けています。まさにジェットコースターのような野球人生でした。

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プロ野球選手として活躍することは僕の子どものころからの夢でしたが、現役時代は楽しいことばかりではなく、たくさんの挫折もありました。今回はそんな僕の現役時代の話をします。

野村監督の言葉「念ずれば花開く」を支えに、夢を追い続けた

僕は決して“野球エリート”ではありません。プロ野球選手になるまでの道のりは険しいものでした。高校時代は目立たない選手で、大学時代も万年補欠だったため、ドラフト候補にはなりませんでした。それでも「プロ野球選手になりたい」という夢を捨てきれない。そこで大学卒業後は、周囲の反対を押し切って渡米し、マイナーリーグに所属しました。たとえ月給10万円でも、「自分はプロ野球選手だ!」と言い張りたかったのです(笑)。

その後、帰国し、アルバイトをしながら入団テストを受け、何とか西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団することができました。高校・大学時代の友人は、まさか僕がプロ野球選手になれるなんて思っていなかったと思います。僕がプロ野球選手になれたのは、「何が何でもプロ野球選手になるんだ!」という強い思いを持ち続けていたから。夢を絶対に諦めなかったからだと思います。

その支えになったのが、野村克也さんに書いてもらった一枚の色紙です。僕は子どものころ、奥さまがオーナーを務めていた野球チームに所属していて、そこを卒業するとき、野村さんが「念ずれば花開く」という言葉を色紙に書いてくれたのです。野村さんは、「人は念じ続けて、思い続けていれば夢は必ずかなうんだよ。夢がかなわなかった人は、念ずるのを止めてしまった人、諦めてしまった人なんだ」と言いました。そのとき、こんな自分でも思い続ければプロ野球選手になれるんだ、とひたむきな情熱が生まれました。

それからは諦めそうになる度にこの言葉が心に浮かびました。プロ野球選手になってからも、辞めたくなったことは何度もありました。そんなときもこの言葉を思い出し、もう少しだけ頑張ってみようと、心を奮い立たせました。その繰り返しで、野球選手としてプレーし続けることができたのです。

不安と戦う日々、スランプ……やがて大好きだった野球が嫌いに

それでも今、現役時代を振り返ると、楽しかったことよりつらかったことのほうが多かったかもしれません。中でも一番つらかったのは、北京五輪の大事な試合で凡フライを落とす大失敗をしてしまい、日本中から大バッシングを受けたときです。

このような出来事もあり、僕は人から「逆境や窮地から抜け出すにはどうすればいいか」とよく聞かれます。でも正直、こうすればいいなんて方法はありません。あるなら僕のほうが教えてほしいくらいです(笑)。当時も特別なことは何もしていません。北京五輪から帰っても毎日試合があったので、目の前のことにがむしゃらに向き合うだけでした。そうしているうちに、また試合で活躍できるようになりました。

それでも現役時代は毎日大きなプレッシャーを感じていました。ホームランを打ててうれしいのは一瞬で、数秒後にはもう不安になります。次にまた打てる保証はないからです。いつ自分は選手として駄目になるか分からない。そんな恐怖感と常に戦っていました。今から考えると、当時の僕は野球で活躍できなければ自分の人生は終わりだ、という思い込みに縛られていたのです。年俸が1億円以上あったころも、自分に自信なんてありませんでした。

実はヒーローインタビューで「キモティーー!」と叫んでいたG.G.佐藤は、完全に自分が作りあげたキャラクターなんです。僕はプロに入ってから数年は1軍と2軍を行ったり来たりしていました。もともと精神的に弱いところがあり、このままでは1軍で活躍できないと思い、「G.G.佐藤」というキャラを作りあげたのです。G.G.佐藤をある意味で「演じる」ことによって、自分自身がプレッシャーに振り回されすぎずに、日々の試合や練習に前向きに取り組むことができたのだと思います。

でも、やがてスランプに陥り、2軍暮らしが続きます。焦りの中で、寝ずに練習をするなど無茶をし、救急車で病院に運ばれたこともありました。最後は身も心もボロボロになり、あんなに好きだった野球が大嫌いになってしまいました。

イタリアで野球を楽しめるようになり、迎えた最後の戦力外通告

そんな僕を変えてくれたのが、イタリアでの野球経験でした。埼玉西武ライオンズから戦力外通告を受けたとき、今の状態で野球とお別れするのは嫌だという気持ちが湧いてきたのです。最後は野球を好きになり、野球に「ありがとう」と言って終わりたい。そこであと1年だけ野球を続けることにしたのです。

どうせなら少年時代のように、純粋に野球を楽しみたい。そんな思いで僕が新たな舞台に選んだのが、イタリアでした。イタリアではスポーツ=サッカーで、野球の存在すら知らない人が大半です。僕が人生のすべてだと思いこんでいた野球が、実はすごく狭い世界だったことを知り、衝撃を受けました。

イタリアで野球をするような人間は、野球が好きでしかたがないオタクや変わり者です。そんな連中と一緒にプレーして、楽しくないわけがありません。試合が終わればすぐにワインパーティーが始まりますしね(笑)。イタリアで僕は、純粋に野球を楽しむ喜びを取り戻しました。童心に戻って野球を、人生を楽しみました。

その後、僕をプロ野球に導いてくれた伊東勤さんが千葉ロッテマリーンズの監督に就任し、再びプロ野球選手としてやってみないかと、声をかけてくれました。そこで入団テストを受け、千葉ロッテマリーンズでプレーすることになったのです。イタリアでの野球を経験した僕は、プロ野球選手としてこれまでとはまったく違うメンタリティーで試合に臨めました。自分のことばかり考えて不安やプレッシャーにおののくのではなく、ファンのため、チームのために、楽しみながらプレーできるようになったのです。

そんな千葉ロッテマリーンズでも、最終的には戦力外通告となります。ただそのときは、とてもさっぱりした気持ちでした。通告された日に妻に、「これで俺、野球は引退するね。今まで支えてくれてありがとう」と伝えました。僕の頬にも、妻の頬にも、涙が流れました。

その涙は、悲しさや寂しさの涙ではありません。二人で力を合わせて、野球人生を完全燃焼した。二人でやりきった。そんな達成感の涙でした。

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PROFILE

G.G.佐藤(じーじーさとう)

G.G.佐藤(じーじーさとう)

元プロ野球選手

1978年千葉県生まれ。高校は甲子園に縁がなく、大学でも補欠。単身渡米するがマイナーリーグは3年で解雇。帰国後、埼玉西武ライオンズにドラフト7位指名。入団後は試合後のお立ち台で「キモティ~!」と叫び人気者に。2008年オールスターファン投票でセ・パ通じての最高得票数を獲得して選出。同年、北京五輪準決勝の韓国戦で2つのエラー。3位決定戦でも落球して「メダルを逃した戦犯」として大バッシングを受ける。2011年、埼玉西武から戦力外通告を受け、翌年イタリアでプレー。その後、千葉ロッテマリーンズにテスト入団し日本球界復帰。波瀾万丈の野球人生を送る。現在は実父が社長を務める株式会社トラバースにて、営業所の所長として活躍中。

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