父と野球への恩返し、新たな挑戦-人生のピークは未来にある(G.G.佐藤さんコラム-第3回)

G.G.佐藤(じーじーさとう)

僕は子どものころからプロ野球選手になるのが夢でした。高校、大学時代は目立つ選手ではありませんでしたが、努力を重ねて何とかプロ野球選手になれました。現役時代は年俸1億円以上稼いでいた時期もあれば、2軍でくすぶっていた時期もあり、結果的に4度も戦力外通告を受けています。

36歳でプロ野球を引退した後は、父が創業した測量・地盤改良工事を行う会社で働いています。このコラムの最終回は、僕がこれからの人生で挑戦したいと考えていることをお話しします。

野球人生を支えてくれた父への恩返しとして。父の会社で第2の人生を

僕が野球を始めたのは父がきっかけです。3歳の僕がボールで遊んでいるのを見て、父は「この子は将来、絶対にプロ野球選手になる」と確信したそうです。野球に励む僕を全力で応援してくれました。父が会社を創業したばかりで毎日夜遅くまで働いていたときも、朝早く起きて僕の練習に付き合ってくれました。

現役時代はつらいことも多かったけど、父の期待に応えたい、父を喜ばせたい、という思いが心の支えになっていました。戦力外通告を受け、「野球を辞める」と伝えたとき、「分かった。お前は十分によく頑張った。ありがとう」と言ってくれた父。あの言葉は今でも忘れられません。

僕が引退後、父の会社に入社したのは、そんな父に恩返しをしたいという思いがあったからです。父が会社のことを何より大切にしていたことを、僕は誰よりも分かっていました。だからこれからは、僕が父の会社のために頑張ろう、父の役に立ちたい、と思ったのです。

父は30歳のときに5人の仲間と現在の会社を創業し、今では会社は社員500人の規模になりました。経営者というより根っからの技術者である父は、ものづくりが大好きで、いまだにすべての開発・工法を自分で考えています。24時間、会社や仕事のことを考えていて、寝ているときに突然起き出して図面を引き出すなんてこともあります。

僕は父と同じことはできませんが、僕は僕らしくもっと力を付けて、会社に貢献したい。そして父に、プロ野球選手時代以上に喜んでもらいたいと考えています。

50%・50%ではなく、どちらも100%でやればいい

僕は会社で働くようになっても、テレビなどメディアの仕事を続けています。父からも「会社の宣伝になるし、G.G.佐藤の存在を世間から忘れられないようにしたほうがいい」と言われたからです。そのため、オファーがあればなるべく受けるようにしています。

ただ、本業と別にメディアの仕事をすることに悩んだ時期もあります。仕事には常に真剣に取り組んでいたものの、中途半端はよくないし、バラエティー番組での僕の姿を見た社員は、本業へのやる気を疑ってしまうかもしれません。

でも悩んだ末に思い至りました。別に本業とメディアの仕事を50%・50%でやる必要はない。どちらも100%でやればいいんだ、と。本業を100%の力でやっていれば、誰も文句は言わないはず。そう考え、どちらも今まで以上に真剣に取り組むようになりました。おかげ様で、テレビ出演などによって会社の知名度があがり、お客さまとの関係も良好になるなど、メディアの仕事は本業によい影響を与えています。

また、仕事を通じて、野球に恩返しをしたいという思いもあります。そこで考えたのが、少しでもスポーツ選手のセカンドキャリアに貢献できないか、ということ。スポーツ選手はどんなに才能があり、努力をし続けても、けがをしたり、戦力にならなくなったりすれば、プロの世界で生きていけなくなります。それまで野球しかやってこなかった人が、新たな道で活躍するのは容易ではありません。そんな状況では、親御さんも安心してプロ野球を目指す子どもの応援ができないのではないでしょうか。

そんな状況を少しでも変えたいと、うちの会社では元プロ野球選手を積極的に雇っています。彼らは東大に入るより難しいともいえる、プロ野球の世界で活躍していた人たちです。そんな彼らが持っている能力を十分に発揮できるよう、僕ももっと力を付けて、いずれは彼らのような能力がある人が存分に活躍できる場を作りたい。それが僕の一つの目標です。

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何歳になっても新しいことを学び、成長し続けていきたい

現在、僕は千葉県にある営業所の所長として60人の部下をまとめています。部下に対しては、なるべく頭ごなしに指示や命令は出さないよう心掛けています。何か問題があったときは、「あなたはどうしたらベストだと思う?」と問いかけ、自分で解決策を考えてもらうようにしています。

これは僕が野球選手・監督として尊敬していた野村克也さんや、大学時代の山中正竹さんの影響です。2人に共通していたのが、常に選手の主体性を大切にしていたことです。選手を自分の駒として使うようなことは絶対にせず、常に選手自身に考えさせていました。

うちの会社でも、社員一人一人が主体的に会社を盛り上げていかなくてはならないと僕は考えています。僕はこれまで野球しかやってこなかったので、自分のことを頭が悪い、勉強は苦手だとずっと思っていました。でもあるとき、娘と一緒に出かけた図書館でその考えを改めました。学生だけでなく、60歳、70歳の方も真剣に本に向かっている光景を目にしたからです。そのとき、自分は頭が悪いのではなく、単に努力していなかっただけなんだ、これからもっといろいろなことを勉強したい、と思ったのです。そう思ったら実行あるのみです。自分の仕事にとってプラスとなるものは何だろう?と考え、昨年、宅建の資格を取るために勉強をして、無事に宅地建物取引士の資格を取得しました。

50歳、60歳になった自分が何をしているのか。今はまだ明確なビジョンはありません。でも人生のピークは常に未来にある。そう信じて、これからも日々自分を磨き、成長し続けていきたいです。

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PROFILE

G.G.佐藤(じーじーさとう)

 

G.G.佐藤(じーじーさとう)

元プロ野球選手

1978年千葉県生まれ。高校は甲子園に縁がなく、大学でも補欠。単身渡米するがマイナーリーグは3年で解雇。帰国後、埼玉西武ライオンズにドラフト7位指名。入団後は試合後のお立ち台で「キモティ~!」と叫び人気者に。2008年オールスターファン投票でセ・パ通じての最高得票数を獲得して選出。同年、北京五輪準決勝の韓国戦で2つのエラー。3位決定戦でも落球して「メダルを逃した戦犯」として大バッシングを受ける。2011年、埼玉西武から戦力外通告を受け、翌年イタリアでプレー。その後、千葉ロッテマリーンズにテスト入団し日本球界復帰。波瀾万丈の野球人生を送る。現在は実父が社長を務める株式会社トラバースにて、営業所の所長として活躍中。

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