がんで変わるのは本人だけではない-笑いの世界で生き続けること。(林家 木久扇さんコラム-第1回)

林家 木久扇 (はやしや きくおう)

どうも、林家木久扇です。「笑点」でご存知の方も多いと思うんですが、最近では番組を観たお子さまから“黄色のおじちゃん”なんて呼ばれることもあります。そんな老若男女に人気の「笑点」には1969年(昭和44年)からレギュラーとして出演させていただいていまして、下積み時代も含めると、かれこれ50年以上この世界で生きてきました。そんな長い期間活動していると、その間には何度か落語家として危機に遭遇したこともあったんです。

そんな危機を今回は3回に分けて皆さんにお話ししたいと思うのですが、最初の1回目は、胃がんを患った時のことをお話ししますね。

林家 木久扇 (はやしや きくおう)

心配性のかみさんのお蔭で今がある

僕は若い時から高座やイベント、テレビ出演など日々忙しくしていたので、自分の体を気遣うことに無頓着だったんです。ただ、かみさんは自身が小さい頃、体が弱かったせいか、人の身体の調子を見るのが上手で、ちょっと僕の顔色が悪いと「お父さん、病院へ行ってらっしゃい」ってよく勧めてくれたんです。

そんなかみさんがきっかけで、定期的に東京慈恵会医科大学付属病院で内視鏡検査を受けるようになったのですが、2000年(平成12年)4月にいつものように病院で検査を受けていた時、胃がんが見つかったんです。担当の医師が内視鏡を見ながら「初期のがんがあります。取っておきましょう」と言うので、てっきり内視鏡の先にメスみたいなものを付けて、ちょんちょんと手術してくれるのかなと思ってお願いしたんですよ。でも、検査終了後に手術に関する書類が出てきて、「約20日間の入院になります」って言われてびっくりしましたね。実は、5月と9月というのは、芸人にとって本当に忙しい書き入れ時なんです。高座やイベントの予定が数多く入っていて、さらに仕事柄、一席話したあとは打ち上げの宴席も多く、なかなか断れませんし、お酒は好きですしね。だから医師には出来れば秋まで手術を延ばせないかお願いしたんですが、先生から「お体が元気な今、手術する方がいいですね。秋まで待ってがんが進行してしまうほうが怖いですから」と言われたんです。

受け止め方は人それぞれ

がんの告知を受けた時、それほどショックはなかったんです。1977年(昭和52年)に、腸閉塞でお腹を27センチ切る手術を受けていたので、初めてお腹を切る時のような恐怖心はありませんでしたから。だから決断は早かったんですよ。ただ、高座やその他の仕事をどうするかの方が心配でした。仕事が出来ないということは、お金も入ってこないんですよ。さらに僕が高座に立たないと一門全員の仕事がなくなってしまうことになるんで。でもかみさんは「早く元気になってもっと稼いでくれればいいから」と。弟子たちも「師匠が元気なら仕事はたくさんくるので、早く治してください」なんて、嬉しいことを言ってくれて、なんとか仕事を調整して手術に挑むことにしたんです。

僕は「手術して早く仕事に復帰しよう!」と前向きだったんですが、息子の木久蔵はショックが大きかったようです。僕が胃がんと診断された時、「もし親父が死んだら、家族もお弟子さんもみんな路頭に迷ってしまう。そのためには自分は何ができるのか」ということを真剣に考えていたそうです。がんに対する受け止め方はそれぞれ違っていて、僕は前向きだったのに、息子の木久蔵は後ろ向きだったみたいで。売れるために、少しでも多く仕事をこなすために、もっともっと修業しなくてはと考えたようで、結局、業界では一番厳しい春風亭小朝師匠の門を叩き、稽古をつけてもらうようになったんです。がんとたたかっている僕をみての、息子の決意や成長、その想いが見えたことは嬉しかったですね。

リハビリの日々と仕事復帰への想い

実は、内視鏡で見つかったがん以外に、胃の裏側にもがんになるかもしれない腫瘍があり、それも一緒に摘出できたので、本当に早期に手術して良かったと思いました。ただ、手術した次の日から、ベッドから立ち上がるように言われたのが辛かったですね。リハビリの一環なんでしょうけど。あと、食事ですね。胃の3分の2を切除しているので、思うように食事がとれなくて苦労しました。息子の木久蔵がお見舞いに来る時はいつも夕食のタイミングで、「どんな食事か食べさせてよ」って病人のご飯を全部食べちゃうんですよ。それで「あんまりおいしくないね」と言って差し入れを渡してくれて。今思えば、僕があまり食べられないので気を使って食べてくれたのかな。弟子たちも病室に顔を出すんですが、その日の出来事やどうでもいいような話をしては帰っていきました。きっとみんな気を使って病気に関わることには触れないようにしてくれていたのだと思いますが、そんな弟子たちからも、「自分たちで師匠を支えるんだ」という思いや優しさがヒシヒシと伝わってくることで有難さを感じましたし、さらに早く復帰したいと思うようになりましたね。

入院前に仕事を調整したと言いましたが、「笑点」だけは一度も休まず出演させてもらいました。病院から仕事場に行って舞台袖で点滴をはずしてという感じでしたね。周りの方にも、病気のことはあまり言ってませんでしたが、ドーランを塗っていても頬はやつれていて、わかる人にはわかったと思いますよ。テレビを見た方から、心配してお手紙をもらったりもしましたから。その他の仕事も、できるだけ断らないようにしましたが、出来ても1日2本程度。なるべく病気と思わせず普通に見えるようにと心掛けていました。

退院してからもリハビリや通院など、大変なことは多くありましたが今こうして高座に立ち、さまざまな仕事をやらせていただけるのも、かみさんをはじめとする家族や弟子達、さらに僕を支えてくれる落語仲間、ファンの方々のお蔭だと感じています。そのことを痛感したのは、2014年のことなのですが、それはまた次回、お話しさせていただければと思います。それでは、お後がよろしいようで。

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PROFILE

林家 木久扇 (はやしや きくおう)

林家 木久扇 (はやしや きくおう)

落語家

1937年東京都生まれ。1956年に漫画家の清水崑氏門下へ入門。1960年に崑氏の紹介で、三代目 桂三木助門下へ入門し、「桂木久男」の名で見習いとなる。1961年三木助氏没後、八代目 林家正蔵門下へと移り、前座となり、芸名を「林家木久蔵」に改名。1965年二ツ目に昇進し、1969年に日本テレビ「笑点」のレギュラーメンバーとなる。1973年真打ちに昇進。2007年には、「林家木久扇」と二代目「木久蔵」の親子ダブル襲名を果たした。現在は、(社)落語協会 相談役、(社)俳人協会 会員、クジラ食文化を守る会 副理事長、(社)日本漫画家協会 参与、(社)日本作家クラブ 評議員、日本トルコカッパドキア親善観光大使など、精力的に活躍中。

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