人生の師の教えに従い、末期がんを受け入れる-末期がん「余命0日」からのカムバック(小西 博之さんコラム-第1回)

小西 博之 (こにし ひろゆき)

いま私は1年間に約100回、全国の様々な場所で講演を行っています。テーマは「固定観念を壊していこう」。特に、がんを患っている方々に、「がんは死ぬ病気」という考えを捨てて、未来への夢をもって楽しく治療を受けましょうと話しています。

というのも、私自身が末期がんで医師に「余命0日」と言われながらも、5年後には「完治」と診断され、現在こうして元気に活動しているのです。絶体絶命の状況を私がどうやって乗り越えたのか、拠り所とした人生の師たちの教え、そしてがんという病気に対する考え方などを3回にわたってご紹介します。

小西 博之 (こにし ひろゆき)

日本中が幸せに包まれる日に、がんの告知を覚悟

私の体に変調が現れたのは、2004年、45歳の時でした。体重がどんどん減っていき、会う人会う人に「痩せた?」と言われるんですね。靴のサイズが28センチから26.5センチになり、体調もどんどん悪くなって、秋には人間の三大欲求である食欲・睡眠欲・性欲がなくなりました。

その年の12月23日の夜、京都のホテルで血尿が出ました。しかもショッキングピンクの鮮血です。びっくりして薬剤師の友人に電話したところ「東京に帰ったらすぐに検査を受けろ」と言われました。

翌々日、つまりクリスマスの日、東京の有楽町にある泌尿器科でエコー検査を受けました。結果が出るまで、私は銀座の喫茶店に入って時間をつぶしました。「日本中が幸せに包まれている日に、いったい俺は何をやっているんだ」と思いながら、長い長い3時間を過ごし、病院に戻ったのは夕方の5時頃です。医師は明確な診断結果ではなく「うちではわからないから、慈恵医科大学病院に予約を入れておいた」と言うのです。私はその時点で自分ががんであることを覚悟しました。なぜなら、エコー検査で医師の手が一瞬止まり、顔色が変わったことを見逃さなかったからです。

「人生は50対50」という欽ちゃんの教え

私には人生の師と呼べる人物が2人います。1人は萩本欽一氏で、若い頃、耳にタコができるくらい言われ続けたことがあります。それは「人生は50対50。悪いこともきちんと受け入れなさい」というもの。とはいえ、遊び盛りの若者には理解できず、当時は聞き流していましたが、その意味を痛感する出来事が15年ほどたってから起こりました。

実は、がんが見つかる3年前にも私は深刻な病気に見舞われているのです。ある朝、起きたら右耳の奥でキーンという音が鳴り続け、天井が回るほどの目まいに襲われたのです。「耳鳴りくらいで大騒ぎしたら本当に病気になってしまう」と考え、しばらく我慢したのが間違いでした。1週間たっても治らないので病院に行ったら「突発性難聴」と診断され、さらに「手遅れ」と言われました。その病気を治療できるのは発症から3日以内だというのです。

サードオピニオンにまで診てもらいましたが、答えはすべて同じ。納得がいかず、TBSの紹介により以前番組で取り上げた耳鼻咽喉科の名医にも診断していただくことになりました。

検査が終わり、そのおじいちゃん先生が言ったのは、「小西くん、君の右耳には鈴虫が2匹住んでいる。人生を全うするまでかわいがってあげるんだよ」というものでした。

私は涙が止まりませんでした。悲しかったのではありません。「欽ちゃんが話してくれたのはこのことか!」とやっと気づいたんです。不治の病を受け入れて、この先も前向きに生きていくかどうかは自分次第。「鈴虫を一生かわいがる」という言い方で、その先生も「病気を受け入れなさい」と言ってくれたのです。

いまも耳鳴りは続いていますが、うるさいと思ったことはありません。それどころか私の「鈴虫」は、体がしんどい時に普段よりも大きな音を出して「早く寝たほうがいい」と注意してくれます。

そして、この突発性難聴を通じて実践できた「受け入れる」ということが、後に末期がんを乗り越える大きな力になったのです。

「徹子の部屋」に出演する夢を抱き、大手術に臨む

慈恵医科大学での検査を翌日に控えた12月26日。その日が私にとって大きなターニングポイントになりました。「俺、がんで死ぬのかな?」と思ったら頭に血が上って、「死にたくない!」と叫びながら自宅で大暴れしました。ソファーをひっくり返して中を引きちぎり、玄関に行っては靴を放り投げ、台所で次々と皿を割りました。やがて「片付けるのは俺か」とふと我に返ってやめたのですが、気持ちはスッキリしました。

ここで私は、もう1人の恩師である高校時代の野球部の監督を思い出しました。その人は「お前たちの夢は甲子園に行くことじゃないだろう?」と言うんですね。「毎日厳しい練習で辛い想いをして行くことが夢なのか?それよりも開会式の前夜、旅館で枕投げをするだろう?そういう楽しいイメージを追いかけろ!」と。がんの宣告を受けようとしている時、その先生の言葉がピンと来たのです。

病気を克服したら何をしようか?そうだ!「ザ・ベストテン」で一緒に司会をした黒柳徹子さんに頼んで「徹子の部屋」に出演し、「がんなんて全然平気でしたよ」と笑いながら言ってやろう。そんなことを考えたら楽しくなってきて、その夜はビールを飲んでぐっすり眠りました。

明くる日、私が持参したエコーの画像を見て、慈恵医科大学の医師は「4~5センチの腎臓がんの疑いがある。確率は97%」と説明。そして、年明けの1月8日から精密検査を受けることになりました。

一連の検査が終わり、1月14日、信じられないような診断結果が下されました。医師は「20×13センチ。日本の腎臓がん史上、5本の指に入る大きさ」と話すのです。「それでステージはいくつですか?」と聞いたら「ない」と答えるんですね。「いまここで即死してもおかしくない状態。通常5センチ程度でも他に転移しているケースは少なくない。この大きさになるまで生きていること自体、私からすればありえない」と話しました。

同行した所属事務所のスタッフは、その話を聞いて号泣。でも、私は平気でした。「それだけのがんを克服してカムバックしたら、すごくカッコいいぞ!」。想像を絶する大病を受け入れ、楽しい夢を抱きながら手術を受けることにしたのです。

次回は、9時間半に及ぶ大手術の末、おそらく病気を受け入れたからこそ起こった奇跡についてお話ししたいと思います。

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PROFILE

小西 博之 (こにし ひろゆき)

小西 博之 (こにし ひろゆき)

タレント

1959 年和歌山県生まれ。中京大学商学部商学科卒業。高校の教員免許取得。NHKドラマ「中学生日記」オーディションに合格し体育の先生役でデビュー。その後、バラエティ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」のレギュラーとして抜擢され、欽ちゃんファミリーの一員として、強面とは裏腹に温厚なキャラクターで人気を得る。同番組内でレギュラーの清水由貴子さんと「銀座の雨の物語」をデュエットしヒット。また、「ザ・ベストテン」の2代目司会者としても活躍し、俳優としても多数のドラマ、映画に出演。2005 年、腎臓がんの大手術を受け、90 日間にわたる壮絶な闘病生活を体験。現在は完治し、俳優業と同時に「いのちの大切さ」を伝える講演活動を全国で行っている。

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