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スピリット

笹原 友希さんコラム - 第1回

挫折

「スケルトンとは」

スケルトンって聞いたことありますか?

走って助走をつけ、頭を前にしてソリに乗りこみ、うつ伏せの状態で氷の斜面を滑り下りる冬季オリンピック種目で、エンジンもアクセルもブレーキもなく、斜面を下り物体エネルギーで加速していく、スイス発祥のそり競技です。

アルプスの少女ハイジ39話で、ペーターがソリを作って頭から滑っていきますよね。アレです。

最高時速は130キロオーバー。目線は地面から15センチ。体感速度は実に300キロだと言われています。

あえて例えるなら、高速道路を走っている車の下に縛り付けられている状態に近いです(笑)。

カーブに入ると体は地面とほぼ直角になりますが、重力で押さえつけられるため落ちることはありません。この時の重力(G)は、3~6Gと言われ、これはおよそ、パイロットが旋回するときにかかるGと同じです。

僕は昨年までスケルトン選手でした。

こんなクレイジーな競技をなぜやろうと思ったのか。まずはスケルトンを始める前に遡ってお話を進めていきます。

高校1年生で味わった初めての挫折。反骨精神が僕を支えてきた

1994年、長嶋茂雄監督率いる読売巨人軍が優勝した時、一家四人、1LDKのアパートで巨人を応援する僕は、小学4年生の野球少年でした。

甲子園で活躍してプロ野球選手になることを夢見て野球を続けていた高校1年の秋、スケルトンへの道へ近づくきっかけとなった、ある事件が起きます。ピッチング練習中に投げた球が、古くなっていたキャッチャーマスクを貫通し、キャッチャーがそのまま病院に運ばれてしまったのです。その選手が練習を休んでいる間、失明したという噂が流れ、その日以来僕はストライクが全く入らなくなってしまいます。イップスという一種の病気だったようで、この頃は毎晩イップスが治る夢、イップスで悩む夢を繰り返し見ました。

弱小チームながらエースで3番、チームの中心としてやってきた僕にとって、これが初めて味わった挫折で、できない人の気持ちに初めてなれた瞬間でもあります。

結局、イップスはどうしても治らず、大好きだった野球を諦めました。

自分がどれだけ深刻に悩んでいるかなんて周りにはほとんど伝わらないですし、辞めた後に周りの態度が180度変わることも経験しました。

失意の中で、「このまま終わってたまるかよ。」という、反骨精神の固まりのようなものが僕の中に芽生え、通っていた高校で1番強かった陸上長距離部に入部します。

正直言って長距離は苦手でした。

それでも、このまま負け犬で終わりたくない。見返すためには一番強い部に入って結果を出すしかないと本気で思っていました。

競技を転向して見えたもの

陸上長距離部で面白かったのは、短距離だとコンマ何秒の世界でしかタイムが縮まらないのに対して、長距離は頑張った分だけ記録がぐんと伸びるところです。

多い時では10秒以上自己ベストが縮まりました。

チーム競技から個人競技に変わったことも、新鮮でした。

自分がやった分だけ自分に跳ね返ってくる陸上競技は、スケルトン競技にとても似ています。

スタートに立ったら、誰も助けてくれない。

特に、冬にしか競技ができないスケルトンで目標を見失わず夏場の練習ができていたのは、陸上部で培った地道な練習習慣のおかげだと思っています。

スケルトンとの出会い

大学で選択したスポーツは、部活としては珍しいボブスレー・リュージュ・スケルトン部(通称そり部)でした。選んだきっかけは、「マイナー競技ならオリンピックに出れるかもしれない!」「オリンピックに出場したら、注目される!もしかしたら女性にもモテる!」という、今思うと不埒な理由でした……。

妄想と現実のギャップは大きく、最初の年は散々たる結果。

全日本選手権は32位、インカレは13人中12位という結果で、その年から始めた選手の中で1番2番を争うダメっぷりでした。

この時スケルトン界を引っ張っていたのが、後に僕の監督となる方です。井の中の蛙だった僕は、マイナー競技でも日本のトップはとんでもない人達だということを思い知らされます。

陸上で培った地道な練習の成果が出始めた2年目からは、徐々にタイムが早くなり、ジュニア日本代表に選ばれました。

ダイヤモンドダストが美しい-30度を記録した真冬のカナダ。これが僕の初めて訪れた海外、そして初の海外遠征でした。

そこから大学3年時にインカレで優勝、4年生で大学生最高位の全日本選手権7位に入り、ドイツで行われたヨーロッパカップで国際大会初の表彰台(3位)に上がるなど、好成績を出し自信をつけていきました。

ドイツの空に日の丸が掲げられた瞬間は、今でも鮮明に覚えています。

正解はない。自分の進んだ道を正解にする努力を怠らないこと。

人生を歩んでいて、その最中で何が正解かなんて分らないと思います。

どん底に感じる時期が、後々になって自分の財産になっていることも多々あります。

僕自身、野球をずっとやっていたら陸上ともスケルトンとも出会っていなかったですし、そこに関わっている人たちとも出会えませんでした。

どんな選択だったとしても、選んだのは自分。この道を選択してよかったと思えるように歩み続けること。

それだけを常に心がけています。

そういう風にしているのも、きっと挫折があったから。

人は、傷ついた傷口を修復するときに、きっと本当の意味で変われるんだと、そう思います。

初回はほとんどスケルトンが出てきませんでしたね(笑)

次回からはがっつりスケルトンです。ご期待ください。

PROFILE

 笹原 友希

笹原 友希(ササハラ ユウキ)

スケルトン競技元ソチオリンピック日本代表

1984年秋田県生まれ。仙台大学時代からスケルトンを始める。卒業後、株式会社アドバンスクリエイトに就職(2010年まで在籍)。北海道・長野・秋田で社会人として競技を続けながら五輪を目指し、2014年に念願のソチ五輪に出場。2017年に現役を引退し、現在は茅ケ崎のスポーツクラブの広報業務に従事。

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